黒髪の野乃

タイトル前の記号は、心への刺さり具合です

△太宰治「ヴィヨンの妻」を読んで

短くて読みやすいはなしでした。

 

健気な妻

20代中ばの若い妻・さっちゃんが、放蕩な旦那・大谷の借金を返すべく奮闘します。

その放蕩とは、様々女性を替え泊まり歩き、お酒をよく飲み、代金は支払わず、挙句居酒屋の儲けを盗むという具合でした。さっちゃんとは夫婦といえど、籍は入れておらず、気が向いたら帰るような淡さでした。二人の間の子にも関心は薄く、さっちゃんが一人で育てています。

その過程の苦労から、さっちゃんは時にほろりとしてしまいます。こんなに酷いひとと連れ添っているのですから、当然そんなこともありますよね。

しかし、その苦労をさらりと流すように淡々と文章は続きます。

私はここが面白いと思いました。課題も借金も苦労も山積みなのに、大谷の放蕩さを印象に残し、さっちゃんの辛さは案外流すのです。

そして、さっちゃんの気丈さが描かれます。

居酒屋の亭主の愚痴に思わず笑ってしまったり、子どものあどけなさに癒されたり、借金返済のために働いたりと、前向きに生活します。なんて気丈なのでしょう。ひねくれず潰されないところがすごいと思います。正式な旦那でもなく、さらに誠実さが皆無なので、自身に頑張る義務はないはずです。それでも、その義務を負うことに微塵も疑問を抱かず、せっせと生きるのです。

さて、この気丈さはどこから出てくるのでしょうか。

 

旦那と妻

さっちゃんは子と旦那のために働き前向きに生きていますが、対して、大谷は厭世家で独りよがりです。大谷は、生まれてこの方ずっと死にたく思っているとまで言います。よくもまあ野放図に生き世を儚むとは、哀しいひとです。

最後、大谷がさっちゃんに、自身を「世間は人非人と決めるが人非人ではない」と主張します。さっちゃんはこう応じます。

人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きてさえすればいいのよ」

こうして、小説は閉じられます。とてもさっぱりとした終わり方ですね。

この言葉に、すべては詰まっていると思いました。くじくじと哲学やなんやを考えなくてもよい、生きてさえすればよい。それは、人間、とりわけ女性の芯の強さを端的に言い当てているようです。あくまでイメージですが、昭和のお母さんとか、そんな包容力がありそうではないですか?

これがさっちゃんの気丈さの源だと思うのです。

 

何故構う

蛇足です。私には大谷が葉ちゃんに感じられて、仕方がありませんでした。堕ちて堕ちて、救っても堕ちて、代わる代わる女性に頼る、だめなひと。「人間失格」ではないですか。

人間失格」では視点が自分でしたが、「ヴィヨンの妻」では視点は他人です。だめなひとには変わりありませんが、過剰な自意識が一層だめさを感じさせているのだと思っていました。でも、思い違いのようです。他人から見てもだめだめでした。

それなのに、どうして、みんなから愛されて構ってもらえるのでしょう。

確かに、ふとした時に可愛いところが見えて庇護欲がかき立てられるかもしれません。だけど。

さっちゃんのような魅力的な女性に愛され、バーのママにお世話になって、他にもたくさん女性がいるのです。これが一般に言う、性はだめ男に惹かれる構図ですか。

いやはや、理解できません。