米澤穂信作品を愛して止みません
思いの丈を書き連ねるだけの記事です。
出会い
中学生の時インフルエンザで寝込み、その時に母が「氷菓」を買ってきてくれました。そのときは面白いとは思いましたが、学校の歴史の謎という学園ものにしては渋い内容に、さして惹かれませんでした。そのときはSF小説に夢中だったのです。しかし、図書館で古典部シリーズを追ううちに「クドリャフカの順番」に出会います。学園祭の謎を解くという筋に、古典部4人の心の変化が肉付けされていて、最高に小説を読む楽しさを感じました。それからずっと米澤穂信先生の作品に夢中です。あの時インフルエンザにかかって良かったです。
日常の謎等
けれど、他作品を読むといろいろなジャンルがあることに気づきます。
・青春+ミステリー
・パラレルワールドSF+ミステリー
・クローズドサークル(過去のミステリー作品オマージュ)+ミステリー
・魔法世界SF+ミステリー
など。多岐にわたるのです。
最大の魅力
ミステリー以外のところに魅力を感じます。
もちろん、ミステリーとしてたいへんに面白い作品ばかりなのですが、「推理小説」だけに割り切らず、ていねいに誠実に登場人物を描いているのです。
ときにミステリーは、ミステリーのために登場人物の心理を操作します。それは「読者VS作者」の構図に則ると多々あることです。
しかし、米澤先生はこの登場人物なら、こう考えるだろう、と誠実に小説に落とし込んでいるのです。それゆえに登場人物は生き生きとし魅力的なのです。
古典部シリーズなどでは、ミステリーを経て、登場人物の成長があります。そのミステリー以外のところが面白いです。
第二の魅力
語彙力、表現力の素晴らしさです。
例えば、福部里志。「データベースは結論を出せない」「ジョークは即興に限る。禍根を残せば嘘になる」などと独特な持論を展開します。私は彼にハートを撃ち抜かれました。高校生にして(フィクションだとしても)、この語彙とこの哲学。中学生のとき里志みたいになりたいと焦がれました。
作者は自在に登場人物を魅力的に描くことができますが、表層だけに留まる場合があります。しかし、心理を深く探り、彼はこの考えのもとこのような発言をする、と練られています。ほんとうに魅力的なのです!
ところで、「登場人物の教養の深さは作者に比例する」と読んだことがあります。まさに。米澤先生のツイートも、楽しみの一つです。
蛇足
米澤先生の作品ほど、心動かされるものはなかなかありません。このごろ読む小説は、ひとときの楽しみを与えてくれるものの、余韻をひいて揺さぶられるものがありません。図書館や本屋には一生をかけても読み切れない本たちが、知らない世界を教えてくれるべく、待っています。私の知る世界の狭さをも教えてくれると信じています。けれど、このごろ手に取った作品はあんまりなのです。不運なだけでしょうか。小説を読む楽しさを思って、すこし哀しいです。
△村上春樹「1Q84」を読んで
このボリュームゆえに、長年図書館で若干恨めしく眺めていた小説です。中学生の時、挑戦しましたが、青豆の1ターンしか読めませんでした。今回改めて読み始めると、謎で引っ張る展開なので案外するすると引き込まれました。
氾濫するテーマ
この小説のテーマは一言では表せません。宗教や時代、音楽、才能、哲学など多くのテーマが盛り込まれています。村上春樹さんの造詣の深みを小説を通じて伺い知ることができます。以下は一例です。
「人間というものは結局のところ、遺伝子にとってただの乗り物であり、通り道に過ぎないのです。彼らは馬を乗り潰していくように、世代から世代へと私たちを乗り継いでいきます。そして遺伝子は何が善で何が悪かなんてことは考えません。私たちが幸福になろうが不幸になろうが、彼らの知ったことではありません。私たちはただの手段に過ぎないわけですから。彼らが考慮するのは、何が自分たちにとっていちばん効率的かということだけです。」
突き詰めると、生命をつなげるのは、遺伝子がそう求めるからなのですね。人間本位ではないのです。及びもつかない冷酷さを感じた部分でした。
複雑なストーリー
主人公が「1Q84」というパラレルワールドへ迷い込むというのが大軸です。
しかし、不随するストーリーが幾重にもあり複雑なのです。それは、SFの世界観の設定と登場人物の個々のストーリーに分けることができます。
SF作品は、現実世界とはルールが違うので、どんな世界とルールなのか説明せねばなりません。本作ではそれが徐々に明らかになります。「リトル・ピープル」や「マザ」など、特有の名前が出てきますが、それらは論理的に説明し難いものばかりです。
登場人物個々のストーリーは、それぞれ奇妙で暗示のようです。この独特な奇妙さは村上春樹さんの作品に多い印象です。これは暗示なのか?と記憶に留めておいても、それを上回る強烈で奇妙なストーリーが次々と現れます。私はキャパオーバー。
不消化のミステリー
難解過ぎて、解らずじまいのことがたくさんあります。論理的ではないし、SFの世界観にしても超常現象としか言い表せないことばかりです。
本作には、作中作(空気さなぎ)や、様々な作品の引用が登場します。さらに、「小説に拳銃が登場したら、それは使用されなければならない」などの主張があります。1Q84の世界は小説かもしれない、より高次元の世界があるかもしれない、と示唆しているのです。つまり、読者の存在を感じるのです。
この構図は推理小説に似ていると思いませんか。
犯人役、探偵役、ワトスン役と、明快な推理小説は特に、「筆者VS読者」の構図が際立ちます。これを置き換えて「村上春樹VS読者」だとすると、このストーリーの暗示は何でしょう?だと思うのです。
しかし、推理小説ならタネ明かしで結ばれますが、本作は問いかけたままです。
後フラストレーション
個人的に村上春樹さんの作品の好きなところを挙げます。
- 哲学を考えさせられる点
- 造詣の深さ
- 堅実な生活の描写
- 突飛な展開と設定
- 翻訳を経たかのような文章
- なぜかモテる主人公
しかし、本すじと離れたや展開や回想、解決不可能の謎は少々苦手です。「1Q84」は特に、あゆみの登場やさきがけの宗教化の謎などてんこもりでした。もやもやが晴れません。村上春樹さんの他の作品を読んで、「論理ではない、理解が及ばないこともある」と自分に教訓が備わっていましたが、それでもやや疲れました…
私の読解力は歯が立たず、「1Q84」の大半を理解できていません。
私が思う、村上春樹さんの作品の魅力は、ストーリーではないのだと改めて感じました。
○泡坂妻夫「乱れからくり」を読んで
久しぶりに!推理小説!!!!というのを読みました。犯人は?トリックは??と謎がもたらすドキドキワクワクを懐かしく感じ、解決後の満足感をしみじみ噛みしめてます。幸せですねえ。ネタバレはしません。
玩具会社の部長が降ってきた隕石に当たり、死んでしまいます。それを皮切りに、その親族が次々と不可解な死を遂げていきます。
どうでもいいことですが、隕石堕ちたのも犯人のトリックかと思って読んでいました。さすがにそんなわけはなかったです。馬鹿ですね。
ここから、この推理小説のきゅんポイントを挙げます。
連続殺人
一族が次々に死ぬということは内部犯が定石ですよね。容疑者は限られなければならないのです。この前提が、アリバイによって成り立たないもやもや感が気持ちいいです。
ミスリード
この人が犯人だろうと当たりをつけていた人が、死んじゃうって時、ありますよね。純粋に違うって場合も。この裏切られる感じたまらなくないですか!
乱れからくり
英訳して、「dancing gimmicks」。名が体を表しています!感動です。
まさにギミックの乱れ打ちなのです。どうして乱れてしまうかが、推理のミソです。
そして、からくりの玩具の数々とねじ屋敷。お屋敷ってミステリーの古典的な風情が感じられて、ワクワクします。
図面の出現
図面が出てくると嬉しくなります。暗号だとなんだか物足りないのですが、図面は世界観が見えてくるようで、好き。珍奇なものほど、作ったひとの狂気が感じられて面白いです。今回は迷路の図面が出てきます。
十角館の図面とか好きです。
本当に面白い推理小説でした。ただ、玩具の雑学とか脇に逸れる話は割愛してほしかったなあ、、、
△林民夫「糸」を読んで
これ、映画化されたのですね。知らずに読みました。
確かに映画ならさぞかしロマンティックで感動的になるのだろうと思われる内容でした。
それぞれの物語
平成に生まれた人々がいかに平成を生きたかを描きます。主人公とヒロインを中心とした人たちそれぞれの視点に語り口があります。
それぞれの人生観があるので、この人はこういう性格や哲学があるのかと興味深く読めました。現実世界において、自分のことばかりで他はおざなりになりがちですが、人は皆それぞれにストーリーがあるということを深々と意識しました。とても基本的なことですが、忘れずに生きていきたいです。
この物語に於いて、それぞれの人のストーリーが糸のように結び合って繋がって世界はできているんだよ、というのが大きな軸なのだと思います。
しかし、個人的には若干それが盛りだくさんで、主人公カップルのストーリーがかすれてしまったのでは、と思います。きっと映画なら、否応なしにカットされて際立つところは際立つのだろうと想像しました。
ハッピーエンド
こちらは完全に好みの問題ですが、ハッピーエンドはさほど好きではありません。その理由の一つに、ご都合主義な展開が多いというのがあります。
これが本作には当てはまっていて、ほんのちょっぴり、鼻白みました。
奇想天外な出会いを果たした男女が駆け落ちに失敗し離れ離れ、数年後再会しかし離れ離れ…紆余曲折に紆余曲折を重ね、めでたく…偶然のなすラブストーリーはなんだか苦手です。
しかし、事実は小説よりも奇なり、なんていいます。小説はいくら奇でも構わないし、盛り上がりの代償に、工夫があろうがなかろうが所詮お好みです。
△太宰治「ヴィヨンの妻」を読んで
短くて読みやすいはなしでした。
健気な妻
20代中ばの若い妻・さっちゃんが、放蕩な旦那・大谷の借金を返すべく奮闘します。
その放蕩とは、様々女性を替え泊まり歩き、お酒をよく飲み、代金は支払わず、挙句居酒屋の儲けを盗むという具合でした。さっちゃんとは夫婦といえど、籍は入れておらず、気が向いたら帰るような淡さでした。二人の間の子にも関心は薄く、さっちゃんが一人で育てています。
その過程の苦労から、さっちゃんは時にほろりとしてしまいます。こんなに酷いひとと連れ添っているのですから、当然そんなこともありますよね。
しかし、その苦労をさらりと流すように淡々と文章は続きます。
私はここが面白いと思いました。課題も借金も苦労も山積みなのに、大谷の放蕩さを印象に残し、さっちゃんの辛さは案外流すのです。
そして、さっちゃんの気丈さが描かれます。
居酒屋の亭主の愚痴に思わず笑ってしまったり、子どものあどけなさに癒されたり、借金返済のために働いたりと、前向きに生活します。なんて気丈なのでしょう。ひねくれず潰されないところがすごいと思います。正式な旦那でもなく、さらに誠実さが皆無なので、自身に頑張る義務はないはずです。それでも、その義務を負うことに微塵も疑問を抱かず、せっせと生きるのです。
さて、この気丈さはどこから出てくるのでしょうか。
旦那と妻
さっちゃんは子と旦那のために働き前向きに生きていますが、対して、大谷は厭世家で独りよがりです。大谷は、生まれてこの方ずっと死にたく思っているとまで言います。よくもまあ野放図に生き世を儚むとは、哀しいひとです。
最後、大谷がさっちゃんに、自身を「世間は人非人と決めるが人非人ではない」と主張します。さっちゃんはこう応じます。
「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きてさえすればいいのよ」
こうして、小説は閉じられます。とてもさっぱりとした終わり方ですね。
この言葉に、すべては詰まっていると思いました。くじくじと哲学やなんやを考えなくてもよい、生きてさえすればよい。それは、人間、とりわけ女性の芯の強さを端的に言い当てているようです。あくまでイメージですが、昭和のお母さんとか、そんな包容力がありそうではないですか?
これがさっちゃんの気丈さの源だと思うのです。
何故構う
蛇足です。私には大谷が葉ちゃんに感じられて、仕方がありませんでした。堕ちて堕ちて、救っても堕ちて、代わる代わる女性に頼る、だめなひと。「人間失格」ではないですか。
「人間失格」では視点が自分でしたが、「ヴィヨンの妻」では視点は他人です。だめなひとには変わりありませんが、過剰な自意識が一層だめさを感じさせているのだと思っていました。でも、思い違いのようです。他人から見てもだめだめでした。
それなのに、どうして、みんなから愛されて構ってもらえるのでしょう。
確かに、ふとした時に可愛いところが見えて庇護欲がかき立てられるかもしれません。だけど。
さっちゃんのような魅力的な女性に愛され、バーのママにお世話になって、他にもたくさん女性がいるのです。これが一般に言う、女性はだめ男に惹かれる構図ですか。
いやはや、理解できません。
○谷崎潤一郎「マゾヒズム小説集」を読んで
私が中学生のころ、中学校の図書館で「刺青」を手に取った時、何かに目覚めたのを鮮烈に覚えています。へええ、こんな世界があるのかと。それから本作「マゾヒズム小説集」をこわごわ購入し、実家の本棚に題名が見えぬよう裏返しに収納していたことも、思い出です。
題名と装丁の得も言われぬ背徳感が大好きです。選ばれた短編たちも、徹底していて恍惚としちゃいます。集英社さんありがとうございます。
「少年」
可愛らしい少年少女の度が過ぎた遊びが如何にしてできてゆくのかというお話です。いくらなんでもそれはやりすぎだよと、目を覆いたくなる部分がありました。なるほど、純粋さから成したマゾもあるのかと思いました。
「幇間」
幇間の意味を知りませんでしたが、どうやら、お酒の席を盛り上げる職業のようです。
ひょうきんさが魅力の三平が、真面目に恋した娘に真面目に愛を告げるべく席につくのですが、初めから人々に馬鹿にされるよう仕掛けられていた、という話です。
そして、種明かしをされた三平。ここで、普通の人であればプライドはずたぼろで怒るはずですよね。しかし、三平はむしろ喜びながら馬鹿にされ続けます。以下はラストの抜粋です。
「えへへへへ」
と、三平は卑しいprofessionalな笑い方をして、扇子でぽんと額を打ちました。
…よかったね、三平。
「麒麟」
論語の二次創作という、一風変わった作品です。主人公はあの孔子です。
衛の国へ旅した孔子は政を誤った王に、国の正し方の教えを頼まれます。快く教え、国は明るくなります。しかし、王の妻である南子が機嫌を損ね始めます。
このときの南子は、夫の愛情の衰えたことではなく、夫の心を支配する力を失ったことに怒っていました。「あなた(王)が妾を愛さぬという法はありませぬ。」とまで言い放ち、恐るべき傲慢さを発揮します。ここで王は愛想を尽かし、徳を重んじれば国は安泰の道ですが、南子の美には敵いません。
孔子は南子の誘惑に靡くことはありませんでしたが、どうしようもないと国を去ります。そして、国勢は衰えます。
しかし、王は幸せでしょう。
読解力が及ばなかった箇所があります。孔子があの手この手の誘惑に顔をしかめるとき、反比例して南子の顔は輝きを増すようでした。南子の思惑に背いたのだから、南子の顔は曇るべきではないでしょうか。わかりかねます。
「魔術師」
どことも知れぬ幻想的な世界で恋人とふたり、魔術を観に行きます。
魔術師は男とも女ともとれぬ風貌で、圧倒的に美しく、見る者性別の別なく虜になります。皆、我が我がと魔術に掛りたがり、人外に化けられてゆきます。恐れ慄いていた主人公も抗えず、恋人を差し置き、魔術師に屈服します。
背徳的な幻想世界の美しさと魔術師の魅力に耽溺できる作品でした。
「一と房の髪」
三人の男が一人のロシア人女性にいいようにされ続け、地震の緊急時にも振り回されるという話です。騙されるのも厭わず女を手に入れたい男、女と心中したい男、騙され既に屍になった男。地震火災の最中、てんやわんやです。
さほど女性が魅力的に感じられず、半ば呆れながら読みました。
男が昔話を対話形式に語るというのが、面白かったです。
「日本に於けるクリップン事件」
この短編を最後に持ってきて、谷崎潤一郎さんのマゾ観がわかるという、素晴らしい順序でした。実際にあった事件とともにマゾヒズムの本質を説明してくれます。
熱烈な女性崇拝のひとなので、愛を語るかと思いきや、人道に背いていてひんやりしました。以下、抜粋です。
関係を仮に拵え、あたかもそれを事実である如く空想して喜ぶのであって、言い換えれば一種の芝居、狂言に過ぎない。
つまりマゾヒストは、実際に女の奴隷になるのではなく、そう見えるのを喜ぶのである。
ここまではかろうじて理解できます。しかし、これから。
女神の如く崇拝し、暴君の如く仰ぎ見ているようであって、その真相は彼等の特殊なる性慾に愉悦を与うる一つの人形、一つの器具としているのである。人形であり器具であるからにして、飽きの来ることも当然であり、より良き人形、より良き器具に出遭った場合には、その方を使いたくなるであろう。
散々人形をいじくり回して、使えるだけ使ってから、それをごみ溜めに捨てるのである。
なんてこと。(これは犯罪者のことを言っているのか、谷崎さん含めたマゾヒスト全般のことを言っているのかわかりませんが)
他の文献に、谷崎さんに理想の女性の年齢を問うたら、十五、六、と応じたそうです。加えて、痴人の愛や刺青、春琴抄を読んでもこの構図と理想は裏づけされるばかりです。
こうすると、人間性に疑問と軽蔑を抱かざるを得ません。よく世の中に出しましたね。現在なら、糾弾されてますよ!!!
そして思うところ
非難めいたことを連ねましたが、例えマゾの本質がなんであれ、作品は愛おしく思います。何故でしょう。
また、個人的には、谷崎さんは女性よりも高次元の「美」を崇めていたのだと思います。なぜなら、対象は必ずしも女性に限らないからです。「少年」や「魔術師」は性の垣根を越えてひれ伏し、「陰影礼賛」では羊羹や雪隠に至るまで日本のあらゆる美について語っています。小説には絶対的な美を持つ女性が現れ、マゾヒズムの構図が描かれますが、文章の織り成す世界観も艶やかに美しいのは、この世のあらゆる「美」を崇めていたからだと考えます。
本作にはちろりちろりとポーが出てきて、驚きました。私の頭の中では、ポーが日本で二手に分かれ、右が江戸川乱歩で犯罪の悦び、左が谷崎潤一郎で崇拝の悦び、と作風があるように思われます。系譜が見えて面白い。
脱線ですが、悪魔的な女性の登場する作品が好きです。ファム・ファタルというのでしょうか。太宰治の「お伽草子」の「カチカチ山」や、「令嬢アユ」が思い当たります。ミステリーだと、犯人がばれちゃうので挙げられませんね。
○佐々木俊尚「レイヤー化する世界」「自分でつくるセーフティーネット」を読んで
フリージャーナリストの佐々木俊尚さんの本です。
健康的でな生活と良好な人間関係を重視し、IT技術を駆使し新しい生き方を実践している方です。俯瞰的な歴史から人の生き方の代表例、ユニークな例え話などの視点から攻める、面白い本でした。また、平易な言葉で綴られていたため読みやすいです。
「レイヤー化する世界」
中世、近代、現代、と世界はどう変化してきたのかをなぞらえて、未来を考えます。どう国が栄え、滅び、他国が成るのかといった歴史の構造に独自の視点を加えています。
レイヤーとは
その独自の視点のひとつをオープンサンドイッチで説明しています。
白い皿はインターネット。一枚のパンはアイチューン。キュウリやハムはミュージシャンやスマートフォン。最後にかけられたマヨネーズは、音楽についての友人たちとの雑談。
こうして出来上がったサンドイッチ全体が、素敵な楽曲なのだそうです。目に浮かびますね。本書ではこのサンドイッチの層を「レイヤー」と呼んでいます。
「レイヤー」はITビジネスのみならず、人間にも当てはまるそうです。
国籍や職業、出身地、出身校、食の好み、趣味に至るまで「レイヤー」といえます。それは国民国家をも超え、新しい世界ができるというのです。
自分なりの結論
今生きている世界の構造(国民国家・民主主義)は当たり前で揺るぎないものだと盲目的に思っていましたが、歴史を見ると世界の構造は変化しています。第三の革命であるIT革命が起きた今、様々な概念はひっくり返る可能性があることを学びました。
本書では最後にとっても簡単な指針を示してくれています。それを私なりに解釈すると、「レイヤーで人間関係を結び、ITと上手く付き合っていきましょう」です。
「自分でつくるセーフティーネット」
日本社会の常識が崩れ始めているが、救いはどこにあるのか。それを教えてくれる本です。
自分なりの結論
Facebookは自身を信頼してもらう道具になり、ゆるい人間関係の中で役に立つそうです。ゆるい人間関係は、決して悪いことではなく、圧力の小さくてのびのびと生きやすい場所を作るかもしれません。また、世の中には善人も悪人も見解次第だから、寛容な人になりたいと思いました。
二冊読んで
機械音痴だなんだいってられない世の中になったのですね。恩恵受けている身ですが、ちょっと残念です。複雑な仕組みについていけるかわかりません。頑張りましょう。