黒髪の野乃

タイトル前の記号は、心への刺さり具合です

○谷崎潤一郎「マゾヒズム小説集」を読んで

私が中学生のころ、中学校の図書館で「刺青」を手に取った時、何かに目覚めたのを鮮烈に覚えています。へええ、こんな世界があるのかと。それから本作「マゾヒズム小説集」をこわごわ購入し、実家の本棚に題名が見えぬよう裏返しに収納していたことも、思い出です。

題名と装丁の得も言われぬ背徳感が大好きです。選ばれた短編たちも、徹底していて恍惚としちゃいます。集英社さんありがとうございます。

谷崎潤一郎「麒麟」 | きくドラ

 

「少年」

可愛らしい少年少女の度が過ぎた遊びが如何にしてできてゆくのかというお話です。いくらなんでもそれはやりすぎだよと、目を覆いたくなる部分がありました。なるほど、純粋さから成したマゾもあるのかと思いました。

 

幇間

幇間の意味を知りませんでしたが、どうやら、お酒の席を盛り上げる職業のようです。

ひょうきんさが魅力の三平が、真面目に恋した娘に真面目に愛を告げるべく席につくのですが、初めから人々に馬鹿にされるよう仕掛けられていた、という話です。

そして、種明かしをされた三平。ここで、普通の人であればプライドはずたぼろで怒るはずですよね。しかし、三平はむしろ喜びながら馬鹿にされ続けます。以下はラストの抜粋です。

「えへへへへ」

と、三平は卑しいprofessionalな笑い方をして、扇子でぽんと額を打ちました。

…よかったね、三平。

 

麒麟

論語の二次創作という、一風変わった作品です。主人公はあの孔子です。

衛の国へ旅した孔子は政を誤った王に、国の正し方の教えを頼まれます。快く教え、国は明るくなります。しかし、王の妻である南子が機嫌を損ね始めます。

このときの南子は、夫の愛情の衰えたことではなく、夫の心を支配する力を失ったことに怒っていました。「あなた(王)が妾を愛さぬという法はありませぬ。」とまで言い放ち、恐るべき傲慢さを発揮します。ここで王は愛想を尽かし、徳を重んじれば国は安泰の道ですが、南子の美には敵いません。

孔子は南子の誘惑に靡くことはありませんでしたが、どうしようもないと国を去ります。そして、国勢は衰えます。

しかし、王は幸せでしょう

読解力が及ばなかった箇所があります。孔子があの手この手の誘惑に顔をしかめるとき、反比例して南子の顔は輝きを増すようでした。南子の思惑に背いたのだから、南子の顔は曇るべきではないでしょうか。わかりかねます。

 

「魔術師」

どことも知れぬ幻想的な世界で恋人とふたり、魔術を観に行きます。

魔術師は男とも女ともとれぬ風貌で、圧倒的に美しく、見る者性別の別なく虜になります。皆、我が我がと魔術に掛りたがり、人外に化けられてゆきます。恐れ慄いていた主人公も抗えず、恋人を差し置き、魔術師に屈服します。

背徳的な幻想世界の美しさと魔術師の魅力に耽溺できる作品でした。

 

「一と房の髪」

三人の男が一人のロシア人女性にいいようにされ続け、地震の緊急時にも振り回されるという話です。騙されるのも厭わず女を手に入れたい男、女と心中したい男、騙され既に屍になった男。地震火災の最中、てんやわんやです。

さほど女性が魅力的に感じられず、半ば呆れながら読みました。

男が昔話を対話形式に語るというのが、面白かったです。

 

「日本に於けるクリップン事件」

この短編を最後に持ってきて、谷崎潤一郎さんのマゾ観がわかるという、素晴らしい順序でした。実際にあった事件とともにマゾヒズムの本質を説明してくれます。

熱烈な女性崇拝のひとなので、愛を語るかと思いきや、人道に背いていてひんやりしました。以下、抜粋です。

関係を仮に拵え、あたかもそれを事実である如く空想して喜ぶのであって、言い換えれば一種の芝居狂言に過ぎない。

つまりマゾヒストは、実際に女の奴隷になるのではなく、そう見えるのを喜ぶのである。

ここまではかろうじて理解できます。しかし、これから。

女神の如く崇拝し、暴君の如く仰ぎ見ているようであって、その真相は彼等の特殊なる性慾に愉悦を与うる一つの人形、一つの器具としているのである。人形であり器具であるからにして、飽きの来ることも当然であり、より良き人形、より良き器具に出遭った場合には、その方を使いたくなるであろう。

散々人形をいじくり回して、使えるだけ使ってから、それをごみ溜めに捨てるのである。

なんてこと。(これは犯罪者のことを言っているのか、谷崎さん含めたマゾヒスト全般のことを言っているのかわかりませんが)

他の文献に、谷崎さんに理想の女性の年齢を問うたら、十五、六、と応じたそうです。加えて、痴人の愛や刺青、春琴抄を読んでもこの構図と理想は裏づけされるばかりです。

こうすると、人間性に疑問と軽蔑を抱かざるを得ません。よく世の中に出しましたね。現在なら、糾弾されてますよ!!!

 

そして思うところ

非難めいたことを連ねましたが、例えマゾの本質がなんであれ、作品は愛おしく思います。何故でしょう。

また、個人的には、谷崎さんは女性よりも高次元の「美」を崇めていたのだと思います。なぜなら、対象は必ずしも女性に限らないからです。「少年」や「魔術師」は性の垣根を越えてひれ伏し、「陰影礼賛」では羊羹や雪隠に至るまで日本のあらゆる美について語っています。小説には絶対的な美を持つ女性が現れ、マゾヒズムの構図が描かれますが、文章の織り成す世界観も艶やかに美しいのは、この世のあらゆる「美」を崇めていたからだと考えます。

本作にはちろりちろりとポーが出てきて、驚きました。私の頭の中では、ポーが日本で二手に分かれ、右が江戸川乱歩で犯罪の悦び左が谷崎潤一郎で崇拝の悦び、と作風があるように思われます。系譜が見えて面白い。

脱線ですが、悪魔的な女性の登場する作品が好きです。ファム・ファタルというのでしょうか。太宰治の「お伽草子」の「カチカチ山」や、「令嬢アユ」が思い当たります。ミステリーだと、犯人がばれちゃうので挙げられませんね。